聖徳太子とは・・・
 
 
聖徳太子は574年(敏達3年)用明天皇と穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)の皇子として生まれました。名は厩戸皇子(うまやとのみこ)といいます。
叔母にあたる推古天皇の摂政として、冠位十二階憲法十七条を制定し、天皇記、国記の編纂を行いました。
又、607年には小野妹子を隋へ派遣して、大陸の優れた文化・芸術の導入に努めました。仏教の導入には特に力を入れており、「三経義疏」を著わし、601年の斑鳩宮の造営や、法隆寺、四天王寺を建立するなど多くの業績を残しました。正に政治・文化の両面で、日本の基礎を築き上げた人物と言えるでしょう。


聖徳太子の名の由来
 
 聖徳太子
は生前厩戸皇子(うまやとのみこ)とよばれていました。この厩戸という名の由来は日本書紀によれば母の穴穂部間人皇女が池辺雙槻宮の庭の厩(うまや)の前で産気づき皇子を出生したため、厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれたとされていますが、この記述は唐の時代に中国に伝わったキリスト教の影響により厩戸という名前に連想させて日本書記に追記されたのではないかと考えられ、本来の厩戸は蘇我氏の地元の「馬屋戸」に由来するのではないかと考えられます。
また、聖徳太子という記述は753(天平勝宝3)年に編纂された「懐風藻」で初めて出てきます。
この聖徳太子とは「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもった太子(皇太子)」という意味で
聖徳太子の師の恵慈の言葉「玄聖之徳」に由来しています。


冠位十二階
冠位
大徳

小徳

大仁

小仁

大礼

小礼

大信

小信

大義

小義

大智

小智


 推古十一年(603)の十二月に聖徳太子が高句麗や百済などの冠位制度を参照してつくりだした日本ではじめての冠位制度で、身分の高低にかかわらず才能のある人を役人に登用するという制度です。

冠位十二階の12とは、中国の五常思想「仁・義・礼・智・信」を基本とし、最高位に「徳」を加え、智と信の順序を入れ替え、「徳・仁・礼・信・義・智」の6階とさらに、それぞれを大小の2つに分け、「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」とした12の冠位のことです。
また、冠位にはそれぞれ色が与えられ、高い位(徳)から順に
・白・で表されました。大小の違いは色の濃淡で表現され、身分の差を視覚的にわかりやすくしていました。


十七条憲法

和を以て貴しと為す」という言葉で始まる十七条憲法は604年(推古天皇12年)の4月3日に聖徳太子によって発表された日本で最初の憲法です。
当時、物部氏や蘇我氏など豪族同士や皇族の間で様々な権力争いがあり、太子はこれらの血で血を洗う権力争いを見つづけてきました。太子は日本は諸外国との関係を考え平和な一つの国家としてまとまりを持つ国にならなければ巨大な勢力「中国」の属国になってしまうだろうという危機感を抱いていました。そうならないためには国をまとめる必要がありました。太子は当時大陸から入ってきた仏教の教えを基に十七条憲法を作ります。

一に曰く、和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。
二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
三に曰く、詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。
(以下十七条まで続く)

この憲法は群臣・群雄の意志の統一を図ろうとした宣言でもあったと言えるでしょう。



--十七という数字--

十七条という条数は、陰(偶数)の極数8と陽(奇数)の極数9をたしたもので陰陽思想の影響といわれれいます。この極数とは、当時の陰陽思想で、十を完全な数として数の頂点として考えます。しかし十は最上なため満ち足りると次は全てがなくなってしまうという考えから十よりは「九」を陽の最上の数(極数)、八を偶数の最上の数と考え、天の数として神聖視していました。


太子一族の滅亡

622年、太子が
斑鳩宮に没し、628年に推古天皇崩御すると次の後継者を誰にするか皇族や有力豪族の間で意見が大きく分かれました。主に聖徳太子の皇子である山背大兄皇子を押す意見と敏達天皇の孫の田村皇子を押意見とで対立します。結局田村皇子が即位し、舒明天皇となりました。しかし舒明天皇が崩御すると642年、今度は皇后がその後をついで皇極天皇となります。

そこで舒明天皇の次は山背大兄皇子が天皇になるであろうとする勢力の動きに自分の身の危機を感じた豪族の蘇我入鹿が、643年斑鳩宮に軍勢を送り山背大兄皇子を殺害しようとします。


襲撃を受けた山背大兄皇子は一度は生駒山山中に逃げますが、父である聖徳太子の教えを守り、自分のために関係のない他の人までも巻き添えにしてはならないと考え、斑鳩宮に戻り自分の血を絶やすことで争いを終えようとしたのです。
そして一族は自決し、聖徳太子一族は滅亡という最後を遂げました。