「和を以て貴しと為す」という言葉で始まる十七条憲法は604年(推古天皇12年)の4月3日に聖徳太子によって発表された日本で最初の憲法です。
当時、物部氏や蘇我氏など豪族同士や皇族の間で様々な権力争いがあり、太子はこれらの血で血を洗う権力争いを見つづけてきました。太子は日本は諸外国との関係を考え平和な一つの国家としてまとまりを持つ国にならなければ巨大な勢力「中国」の属国になってしまうだろうという危機感を抱いていました。そうならないためには国をまとめる必要がありました。太子は当時大陸から入ってきた仏教の教えを基に十七条憲法を作ります。
一に曰く、和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。
二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
三に曰く、詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。
(以下十七条まで続く)
この憲法は群臣・群雄の意志の統一を図ろうとした宣言でもあったと言えるでしょう。
--十七という数字--
十七条という条数は、陰(偶数)の極数8と陽(奇数)の極数9をたしたもので陰陽思想の影響といわれれいます。この極数とは、当時の陰陽思想で、十を完全な数として数の頂点として考えます。しかし十は最上なため満ち足りると次は全てがなくなってしまうという考えから十よりは「九」を陽の最上の数(極数)、八を偶数の最上の数と考え、天の数として神聖視していました。
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