法隆寺の国宝建築(19棟)
西院伽藍
金堂-五重塔-大講堂-回廊-経蔵-鐘楼-中門-聖霊院-網封蔵
食堂-東室・西室-三経院-西円堂-南大門-東大門
東院伽藍
夢殿-伝法堂-東院鐘楼

金堂(こんどう)---国宝 <飛鳥時代>
 法隆寺のご本尊を安置している殿堂が金堂です。
四方に階段を付けた二重の基檀に立つ二層づくりであるこの金堂は、柱上に横材が何段も井桁に組まれているもので、飛鳥時代の特徴的な建造物です。
また、金銅釈迦三尊像をはじめ、諸像が安置されているほか、天井には、天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされ、周囲の壁面には、世界的に有名な飛天図が描かれています。
世界的にも知られていた12面の壁画ですが、昭和の大修理の最中の昭和24年(1949)1月26日朝に火災につつまれ、あらかた焼失してしまいました。
現在は昭和42年に14名の日本画家の手によって再現された壁画が白壁を埋めています。
また、現在入母屋造りの屋根をしている金銅ですが、昭和の大修理時に当時の学者達は、玉虫厨子と同じと主張し鍜葺き(しころぶき )にしようという話が有りましたが、これに反対したのが以降「法隆寺の鬼」と呼ばれる様になった西岡常一棟梁でした。後に、慶長の大修理時の資料などから入母屋造りだった事が判明しました。
五重塔---国宝<飛鳥時代>
 高さ約31.5m
(基檀上より)で、我が国最古の五重塔として知られ2重基檀の上に建ち、各重の平面と屋根の大きさは逓減率が大きく、また、5重目の柱間は初重の半分になっている為、非常に均整のとれた、安定した美しい印象を与えています。
五重塔は釈尊の遺骨(仏舎利)を泰安するための塔ですが、塔の原形はインドのストゥーパーで、日本に伝わる途中、中国で楼閣の形になりました。
また、最下層内陣には、奈良時代初期に造られた塑像群があり、地下1.5mに埋められた大理石の上部には舎利奉納孔がありますが、本当に仏舎利があったのかは謎であるといわれています。同様に、相輪に掛かっている鎌は法隆寺の七不思議の一つとして様々な説があり謎とされています。
近年、この五重塔の心柱の伐採が594年であることが、年輪年代測定法により判明し、日本書紀の記述にある天智9年(670年)の火災以降に再建されたという、再建論に一石を投じる形となりました。

ちなみに、前年の593年は聖徳太子が摂政の位に就いた年です。
大講堂---国宝<平安時代>
 仏教の学
問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されました。
大講堂の両脇には、経蔵と鐘楼があります。これは古代寺院の様式で、大講堂に並んで経蔵・鐘楼が並存するのは法隆寺だけです。
また垂木勾配を緩くしたままにする為日本独特の屋根の上に屋根を設けるという形式の屋根では現存最古ものです。
鐘楼とともに正暦元年(990)には再建されました。
本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られています。
回廊---国宝<奈良時代>
 回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、西院伽藍を形造っています。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。
また西側より東側のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。


経蔵(きょうぞう)---国宝<奈良時代>
 経典を納める施設として奈良時代に建
立されました。楼造で、壁面に見える二重虹梁(こうりょう)と、その受けの蟇股(かえるまた)の架構が良く整っています。
現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像(平安時代)が安置されているほか、三伏蔵(他は金堂内と大湯屋前)の一つがあり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。また、現在知られている古代瓦で鬼瓦そのものにヘラ書きされたものが二つあるうちの一つで、文安六年で有名な瓦大工橘吉重の作で、法隆寺「法隆寺大経蔵北方」と書かれています。
鐘楼(しょうろう)---国宝<平安時代>
 吊されている鐘は白鳳時代のものですが、建物は延長3年(925)に落雷によって焼失し、現在の鐘楼は経蔵の様式にならって再建されたものです。
昔は時間の告知のために鐘をついていましたが、今では年中行事のみに使われています。
かつてあった茶屋「柿茶屋」でこの鐘を聞いて詠んだという正岡子規の
「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句は有名です。
中門---国宝 <飛鳥時代>
 西院伽藍への入口である中門は深く覆いかぶさる軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の特色を持つ建築物です。
エンタシスとは中央にふくらみをもつ柱で、古代ギリシャローマ建築の影響を受けたものと一般的には言われています。
中門がある西院伽藍は天智9年(670)に若草伽藍が全焼した後に場所を変えて建てられたと考えられており、金堂、五重塔、中門の順に建立されたと考えられています。
また、この中門は門の両脇に我が国最古の金剛力士像が配置されている事から仁王門とも呼ばれています。
聖霊院---国宝<鎌倉時代>
 1121年(保安2年)、東室の南側の一部を改造したもので、現在の建物は1284年(鎌倉時代)に改築された寝殿造りの建物です。
法隆寺のご本尊でもある聖徳太子45歳の像のほか太子の長子・山背大兄王や兄弟皇子の殖栗王の像、太子の兄弟皇子・卒末呂王や高句麗僧・恵慈法師の像(いずれも国宝)が祀られ 、毎年行われる、法華経などを中心として太子の遺徳をたたえる法会である「お会式」で公開されます。この法要は太子の命日に毎年行われるもので、法隆寺最大の行事です。
網封蔵(こうふうぞう)---国宝<奈良時代>
 平安時代の初期に建立された寺宝を保管するための南北9間の両端各3間にそれぞれ蔵を設け、中央の3間が吹き抜けになっている蔵で、双蔵(ならびくら)と呼ばれる様式の建物です。またエンタシスの床柱など奈良時代の特色をみることも出来ます。
現在ここの宝物は、大宝蔵殿などへ移されています。
食堂(じきどう)---国宝<奈良時代>
 天平時代に建立された現存日本最古の食堂で、もともと政所という法隆寺の寺務所でしたが、平安時代に入り僧が食事をする場所として使われました。
細殿(写真右)と軒を接してこのように二つの建物を並べて建てるのを、双堂(ならびどう)といい、奈良時代の様式です。
東室・西室(ひがしむろ・にしむろ)---国宝<奈良時代>
 西院伽藍の東西それぞれに、東室・西室という南北に長い建物があります。
東室は東に位置する僧房で、法隆寺に住む僧が生活していた建物です。
天平時代東室は大房と呼ばれ、僧が寝泊まりし、東室の東側にある妻室は小子房と呼ばれその従者が寝泊まりしていたものです。

三経院(さんぎょういん)---国宝<鎌倉時代>
 聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられました。
創建時代の建物は焼失したため現在の建物は1231年(鎌倉時代)に再建されたものです。
三経とは、法華経・維摩経・勝鬘経で現在も毎年、夏安居の3ヶ月間(5月16日〜8月15日)に講義を行っていま す。
西円堂---国宝<鎌倉時代>
 八角形をした西円堂は奈良時代、聖徳太子の3夫人の1人橘夫人の発願により行基菩薩によって、創建されたと伝えられていますが、現在の建物は、1250年(建長二年)に再建されたものです。
俗に「峰の薬師」と呼ばれる本尊薬師如来座像が安置され、耳病によく効くというので、錐(きり)を納める風習が今日に伝わっています。
薬師信仰は、日本の民俗信仰の発展と共に、特に西円堂の「峯の薬師」に集中せられて今日に至っています。
また毎年、2月1日から3日間、国家の安泰と五穀豊穣を祈願して修二会という儀式が行われ、3日の結願の夜に節分の豆まきの原点とも言われる鬼追い式が行われます。
西円堂の東側にある鐘楼は、時を知らす鐘で、現在8時・10時・12時・2時・4時にその数だけ撞かれています。
南大門---<国宝> 室町時代
 法隆寺の玄関にあたる「南大門」は、創建時のものは、永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に現在の門が再建されました。
三間一戸の八脚門で、単層入母屋造。東大寺南大門(奈良県奈良市)・東照宮陽明門・日暮門(栃木県日光市)とともに、日本3大門のうちの1つです。


東大門---国宝<奈良時代>
 珍しい三棟造りの大門で、奈良時代に建立され、奈良時代を代表する建物の1つである東大門は、西院と東院の間に建ち、「中ノ門」ともよばれています。この門は、切妻造、本瓦葺で奈良時代八脚門の典型的な形式の山門です。三間一戸の八脚門で、天平時代のものとしては、他に東大寺の転害門があるだけです。

夢殿---国宝<奈良時代>
 聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に、聖徳太子のお住まいであった斑鳩の宮跡に、行信僧都という高僧が建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といい、その中心となる八角円堂の建物が夢殿です。
四方に扉が設けてあり、瓦ぶきの屋根は創建当時のものです。夢殿の名前の由来は太子が夢の中で金人(仏)に出会ったという伝説から名づけられたとも言われ、「三宝絵詞」「日本往来極楽記」「今昔物語」に出てくる記録によると、聖徳太子が禅定をして夢を見るための聖所を記念したものとされていますが、夢殿は643年蘇我入鹿によって焼かれ、現在ある夢殿は天平時代の建立なので、聖徳太子の在世の推古時代にこの形であったかは不明です。
また岡倉天心が明治17年(1884)に薬師寺東塔を凍れる音楽と評したフェノロサと共に数百年間開けられたことの無かった法隆寺夢殿の中で聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音像をみつけたのです。
伝法堂(でんぽうどう)---国宝<奈良時代>
 739年(天平11)聖武天皇夫人の橘古那加智の住居を施入したもので、東院の講堂にあたります。
床を張った現存最古の建物で、桁行き三間、梁行き四間の壁と扉で閉ざされた部分桁行き二間の開放的な部分そして広い簀子敷と三つの空間からなり、床を上げ、土間から切り離す事によって、土間と違った領域を空間化している古代平地住居の形式をとっています。
また、空間を仕切るものとして壁と扉しかなく、内部に間仕切りの無かったことも重要な特質です。
東院鐘楼---国宝<鎌倉時代>
 三間二間の楼造で、一階に腰板を張って軸部を見えなくした袴腰という形式です 。内部に「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されている事から中宮寺より移されたものと言われています。
舎利殿の舎利を奉出する時や、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれます。