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世界文化遺産姫路城



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姫路城に残る物語
宮本武蔵と妖怪退治
播州皿屋敷お菊井戸
近松門左衛門・井原西鶴と
「お夏・清十郎」

城の傾きと棟梁の死
城を守った中村大佐

戦と美。巧みな建築
姫路城を支える心柱
秀吉三層城の名残
狭間
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宮本武蔵と妖怪退治
刑部神社

 姫路城城主が木下家定であった頃、宮本武蔵は名前を隠し姫路で足軽奉公をしていました。その頃、城内では天守に妖怪がでるという噂が広まっており、城の見張り番の者たちもおそれをなしてまともに出番を勤めることができない状態が続いていました。しかしただ一人武蔵だけが平気で夜の番をしており、それを聞いた家老が、その足軽は高名な武芸者宮本武蔵であろうと名を隠していた武蔵を見破り、武蔵に妖怪退治を命じました。

ある夜のこと、武蔵は手に灯り一つを持って不気味な暗闇の天守閣に登っていきました。
武蔵が三階の階段にさしかかった時、突然あたりを激しい炎が包み、地響きと轟音が起こり、武蔵に襲いかかろうとします。すぐさま武蔵は妖怪に斬りかかろうと腰の太刀に手を掛けます。すると異変はピタリと止まり、あたりはまた何もない暗闇に戻りました。
何事もない3階から武蔵が4階にあがるとまた同じような炎と轟音の地響きが起こります。しかし、武蔵が腰の太刀に手を回すと、またあたりが静けさを取り戻したのでした。
そのまま天守閣まで登った武蔵は、妖怪が現れるのを待とうと明け方まで座り続けます。やがて、眠気に誘われうつらうつらし始めた頃どこからともなく武蔵を呼ぶ声が聞こえてきます。
目を開けると武蔵の前に美しい姫が現れ武蔵に語りかけました。
「わたしは姫路城の守り神、刑部明神です。今夜あなたがここに来てくれたおかげで、城に住む妖怪は恐れをなして逃げていきました。褒美としてこの剣を与えましょう」
武蔵の前には、白木の箱に入った郷義弘(ごうのよしひろ)の名刀が残されていました。

播州皿屋敷お菊井戸

 
姫路城の上山里(かみのやまさと)とよばれる広場に、お菊井戸と呼ばれる古い井戸があります。この井戸は、播州皿屋敷で知られるお菊さんゆかりの井戸でよく知られた怪談話が残されています。
 約450年前の室町時代中期、
姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていました。
 それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、
鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出しました。
 この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができました。その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、鉄山の同士町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいます。
 ところが、以
前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄りました。しかし、お菊はその条件を聞き入れず、弾四朗に折檻されます。それでも強情に言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込みました。
 それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で
 「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」
と皿を数える声が聞こえるようになりました。
その
お菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。


近松門左衛門・井原西鶴と「お夏・清十郎」

井原西鶴の小説「好色五人女」の中の「姿姫路清十郎物語」や近松門左衛門の戯曲「五十年忌歌念仏」で使われた「お夏と清十郎」の物語が姫路には伝えられています。

 1625年、姫路の米問屋「但馬屋」に奉公していた室津の造り酒屋の息子清十郎が、米問屋の主人に刀を振り重傷を負わせる事件が起きました。身分の違う者同士が結ばれない時代に米問屋の娘お夏と恋仲になったことが原因でした。
 この騒動を知った当時の姫路城城主榊原忠次は、同じような事件が二度と起きないようにと清十郎を打ち首の刑に処しました。
しかし、その処分をきっかけに清十郎を忘れきれないお夏は「清十郎さま殺さば、お夏も殺せ」と半狂乱で叫び、髪を振り乱して裸足で城下を歩き回るようになりました。

という悲しい物語です。
現在、姫路城の北の「野里の慶雲寺」には、この世で結ばれなかった二人があの世で結ばれるようにと二つの小さなお墓が建てられています。
毎年、8月9、10日には二人を供養する「お夏清十郎供養まつり」が行われています。


城の傾きと棟梁の死

現在の姫路城は1601年から9年がかりで建てられました。その9年間の築城を指揮したのが棟梁の桜井源兵衛でした。

源兵衛は寝る間も惜しみ毎日仕事に打ち込み、築城を9年という短い期間でやり遂げる偉業をなしとげました。はれて完成した姫路城を眺めた源兵衛は達成感と満足感に包まれていたことでしょう。しかし、源兵衛にはひとつだけ気にかかることがありました。城が少し傾いて見えたのです。
後日、源兵衛は妻を連れて城を案内しました。美しい外観とは裏腹に戦にそなえ要塞としての役割も果たす城は、妻にとってはまるで迷路のようにいつまでたっても天守につかないように思いました。いくつもの門をくぐりやっと天守の下まで来たとき、大天守を見上げた妻は源兵衛に言いました。
「とてもすばらしいお城です。ですが、お城がすこし傾いて見えるのですが・・・」
その言葉を聞き、源兵衛は打ちひしがれた気になりました。
--素人の目にも傾きがわかるようでは、自分の設計に誤りがあったに違いない。--
そう思った源兵衛はノミを口にくわえ天守閣の最上階から飛び降りたと言われています。

実際、姫路城は巽(たつみ)(東南)の方向に傾いていました。しかし、これは姫路城を支える心柱の礎石の地盤が沈下していたためで、源兵衛の設計に誤りがあったわけではありませんでした。

 東に傾く姫路の城 花のお江戸が恋しいか

姫路城の傾きを伝える俗謡が残っています。

一説によると、要塞でもある城の弱点をも知り尽くした大工を城の完成を待って殺したという考え方もあるようです。

城を守った中村大佐

 江戸幕府が倒れ新政府が発足すると、それまでとは異なり城は無用の長物になっていきました。明治7年陸軍歩兵十連帯の設置に伴い、姫路城の櫓や門などが取り壊され、天守も取り壊されかけました。しかし、解体のための費用も莫大にかかることから、姫路城は競売にかけられることになります。落札者は姫路市米田町の神戸清一郎氏で落札価格は23円50銭でした。
神戸氏は城の瓦や釘を再使用するつもりでしたが、やがてうまく使えないことがわかり、結局その権利を放棄してしまうことになります。
そんなころ姫路城のすばらしさを後生に残すべきだと立ち上がったのが、当時陸軍省第四局長代理だった中村重遠大佐(なかむらしげとうたいさ)でした。
中村大佐は、陸軍卿(りくぐんきょう)(陸軍大臣)の山県有朋(やまがたありとも)に陸軍省の費用で姫路城を永久保存するための修理をすべきだと意見書を出しました。
この意見書のおかげで1879年(明治12)に姫路城の保存が決定しました。
 
 この中村大佐の働きをたたえ、「菱の門」の近くに中村大佐の碑が建てられています。